第一回 神の軍略を持つ男!
記念すべき第一回目の今日は、僕が最も尊敬している竹中重治についてお話したいと思います。
そもそも、竹中重治といっても、全く学校では学ばないし、武田信玄や、上杉謙信などといった有名な武将ではありません…
しかし、彼は神の軍略を持つ男といっても過言でないくらいすごい人なんです!
竹中重治(たけなかしげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。
通称、「半兵衛」と呼ばれていました。
天文13年9月11日(1544年9月27日)、美濃の斎藤家の家臣で、不破郡岩手城主の竹中重元の子として生まれました。
永禄3年(1560年)に、父の死去により家督を継ぎ、美濃の菩提山城主となって(※1)斎藤義龍(さいとうよしたつ)に仕えました。(父・重元の死は永禄5年(1562年)という説もあるみたいです)。
そして、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が死去すると、その後を継いだ(※2)斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕えることになります…
この頃、尾張の織田信長による美濃侵攻が連年のように激しくなります。斎藤義龍が当主だったころは、信長の攻勢を防いでいましたが、その義龍が死去すると、家督を継いだ龍興が凡庸だったがために、家臣達に動揺が走り、一転、織田軍の侵攻を防ぐことが難しくなってしまいました。
その状況を見た信長が永禄4年(1561年)7月に美濃に侵攻してきます!
しかしながら、このピンチを救ったのは竹中重治の伏兵戦術で織田勢を破ったとされています。
また、永禄6年(1563年)に再び織田軍と新加納で相見ることになりますが、このときも、竹中重治の戦術によって織田軍に勝利してます。
そして、竹中重治といったらこれだろう!というくらいの有名な出来事が起こります。
それは、永禄7年(1564年)2月に起きた稲葉山城奪取事件です。
これは、当時、斎藤龍興が酒色に溺れて、全く政治をしなくなってしまいます。
また、一部の側近を寵愛し、重治や、稲葉良通(一鉄)(いなばよしみち/いなばいってつ)、安藤守就(あんどうもりなり)、氏家直元(卜全)(うじいえなおもと/うじいえぼくぜん)の西美濃三人衆を政務から遠ざけていました。
このため、重治は人質として稲葉山城内で生活をしている、弟の重矩に連絡をとり、仮病をつかわせて、看病のためと偽り登城しました。
そのとき、看病のための道具を入れたとされる長持の中に、刀と武具がつまっていました。
そして、城内に入ると、城番斎藤飛騨守を倒して久作と従者らが一斉に打って出た。騒ぎに驚いた斎藤龍興は、近臣の勧めで城の裏門から脱出、遠く揖斐郡まで逃げたという。
成功を確認した半兵衛は、城外に控えていた安藤守就・竹中軍を城内になだれこませて城下を制圧しました。
そのようにして、わずか16人(17人という説も)で(※3)稲葉山城を一日で奪取しました。
その出来事を聞いた織田信長は、美濃の半分を与えるから、稲葉山城を明け渡すように重治に言いますが、「自分の欲でやったわけではない」とこれを拒否し、同年8月に自ら稲葉山城を龍興に返還します。
そして、自ら斎藤家を去り北近江の戦国大名である浅井長政の客分として仕えた。
永禄10年(1567年)、信長の侵攻により美濃斎藤氏は滅亡した。(このとき、重治は信長軍に属していました。)すると信長は、重治を家臣として登用したいと考え、美濃攻めで頭角を現していた木下藤吉郎秀吉(羽柴秀吉)に織田家に仕えるように誘わせました。
重治はこのとき、秀吉の才能を見抜いたとされており、信長に仕えることは拒絶したが、(信長にあくまで仕えなかったのは、信長が軍師というような参謀を好まない上、信長自身が優秀すぎることから、仮に仕えても重用されないと考えたため、あるいは信長を感情的に嫌ったためとされる)秀吉の家臣となることは了承したとされる。(このときの状況は『三国志演義』における劉備が諸葛亮を迎える三顧の礼がモデルになっていると指摘されている。)
後に、信長包囲網が敷かれ、信長と浅井長政が敵対関係になると、重治はかつて長政の家臣時代にあった浅井家臣団との人脈関係があったため、主に調略活動で活躍しました。
元亀元年(1570年)には、浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって織田方に寝返らせています。また、直後の姉川の戦いにも参加しました。(このとき、安藤守就と共に行動していたそうです)
秀吉が織田家の中国遠征総司令官に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加し、天正6年(1578年)に宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、信長に賞賛された。
同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重(あらきむらしげ)に対して、秀吉の幕僚の黒田孝高が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛されたため、信長は孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じた。しかし重治は秀吉に偽の首を進呈させ、松寿丸の命を助けたのである。(この後、助け出された孝高はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。)
天正7年(1579年)4月、秀吉の下で播磨三木城の功囲中(三木城の戦い)に病に倒れました。秀吉は重治の病状を心配して京都に療養させますが、重病に蝕まれていた重治は、死期を悟り、「陣中で死ぬこそ武士の本望」と秀吉に懇願して、6月13日に播磨三木城の攻囲中に亡くなりました。享年36。死因は肺炎か肺結核といわれてます。
重治の最後の策は、三木城兵糧攻めを秀吉に授け、別所長治を降伏させています。この無血開城戦法は、後の備中高松城の水攻めにも通じている。
~竹中重治の逸話~
・重治が息子の左京(後の(※4)竹中重門)に軍物語について教えていると、左京が急に席を立ってしまった。重治が理由を聞くと、小用だという。これに重治は怒り、「たとえ小便を垂れ流そうとも、軍談の席を立ってはならない。竹中の子が軍談に聞き入って座敷を汚したと言われれば、竹中家の面目であろう」と言ったといいます。
・重治はいつも貧相な馬を買っては、それに乗馬していた。秀吉が「貴殿の身分でその貧相な馬はなかろう」と言うと、「名馬を買うと、実際の戦闘のときにその名馬を惜しんで戦機を逃がすことになりますから、これがいいのです」と述べたとされる。
・長篠の戦いで、武田勢の一部が向かって左側に移動した。秀吉は回りこまれるのではないかと焦ったが、重治は織田勢の陣に穴を開けるための陽動ではないかと進言した。秀吉は重治に従わず迎撃のため兵を動かしたが、重治は反対した挙句手勢と共に持ち場を離れなかった。まもなく武田勢は元の位置に戻って秀吉が不在の地点に攻め寄せた。重治が守っている間に秀吉もあわてて帰還し、重治が正しかったことが証明された。
※1 斎藤義龍 斎藤家二代目当主。長良川の戦いで、父である斎藤道三を討つ
※2 斎藤龍興 斎藤家三代目当主。
※3 稲葉山城 後の岐阜城。織田信長が攻め落とせなかった城である。
※4 竹中重門(たけなかしげかど) 秀吉に仕え、美濃国不破郡において5000石の所領を与えられ、のちに加増されている。関ヶ原の合戦では、初め西軍であったが、のち東軍に内応し、西軍の大将の一人小西行長を捕らえた功により所領は安堵され、禄高は低いが家名を存続させている。
(出典Wikipedia)
ということで、かなり長文になってしまいましたね…
たぶん最後まで読んでくれる人はなかなかいないのではないかと思います。
でも、竹中重治はこれだけ、すぐれた武将だったのです!ぜひ少しでも竹中重治について興味を持っていただければ幸いです。
彼は信長の野望でもかなり良い能力を持っていますのでぜひ、登用してください(笑)
~次回予告~
第二回は「戦国時代の始まり」ということで北条早雲について語りたいと思います。
次回も読んでいただけると幸いです。
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コメント
武将の主役が面白いですね。
ちなみに斉藤義龍は浅井長政の姉が奥様(近江の方)ですね。
投稿: sisi | 2009年1月23日 (金) 01時28分